早坂理工株式会社 | 研究開発支援機器・製産管理計測システムの技術商社

礎

創業期からの三十年それは一通の手紙から始まった…

●1945年頃(昭和20年頃)

早坂勇造(初代社長)は根っからの機械屋で、朝起きるなり丹前を着たまま社宅隣の工場の見回りに出かけ、そのまま設計に熱中し図面と睨めっこしたまま帰宅しないということが茶飯事だった。
鉄工所に工員3~4人の頃から勤めており、太平洋戦争中には、従業員1,000人以上を使う常務取締役工場長までになったが、喧嘩をしてあっさり退職してしまい、その後はこれまで培った機械技術で何とかその日その日を食いつないでいた・・・・

そんな時知人から一通の手紙が届いた。「山登り仲間が化学磁器を販売してくれる所を探しているが如何ですか?」…それは運命の手紙だった。

●1947~1950年頃(昭和22~25年頃)

北海道大学を中心に、化学磁器の販売が始まった。その後、戦後の復興の原動力である鉄鋼業のお陰で室蘭地区からも多くの受注があり、急速に売上げが上昇。化学磁器から始まった販売は、その後硝子物理化学実験器具等の商品の取り扱いに発展する。しかしこの頃の営業スタイルは、夏は自転車にご用籠、冬は橇(そり)を引いて歩くのが定番で、今とは想像も出来ない程の違いがあった。

●1956年(昭和31年)

室蘭出張所開設。室蘭地区の急発展に対応して、先代にロクに相談もせずに事を進めて強引に開設してしまった。事務所は室蘭駅前広場に面した場所にあったが、アメリカの艦砲射撃で吹き飛ばされた跡地に立てられたバラックで間口2間(3.6m)×奥行1.5間(2.7m)の土間の事務所だった。
電話は無くお隣りからの呼び出し。
移動はシルバーピジョンスクータ(富士重製)だったが、夏の雨の日はびしょ濡れ、冬はタイヤが夏用しかない為にカーブ等でよく転倒。とにかく屋根付きの乗り物は当時の憧れだった。

●1958年(昭和33年)

100万円の資本金で『株式会社早坂工業所』となる。先代は、私にも責任を持たせる為にということで代表取締役を先代と私の二人制にしたようだ。

●1960年(昭和35年)

本社を札幌市北1条東11丁目に初の自社社屋として改築移転。この時代は 夜間無人の社屋は考えられず当社も当時1Fは事務所、2Fは私の社宅だった。
(この年、池田首相が所得倍増計画を発表〜高度経済成長が始まる。)

●1962年(昭和37年)

創業15周年の記念に合わせ、札幌市産業会館にて業界初となる展示会を開催。 当時としては画期的で、多くのユーザーから好評を頂いた。8月に戦後初の国産航空機YS-11が初飛行、話題を呼ぶ。

●1964年(昭和39年)

現社名である『早坂理工株式会社』へ社名変更。当時「理工」という社名は珍しかったが、その後全国で「理工」の社名が多く採用されていった。わが社は、社名でも先端をいっていたのかなぁなんて思う。
(東京オリンピック開催。経済成長で日本の資金力が認められた。東海道新幹線や高速自動車道路が完成する。)

●1967年(昭和42年)

卸センターの建設計画に参加し新社屋を建設。当時は「まさか鉄筋コンクリートの社屋で仕事が出来るとは」と誰もが思っていたが、それどころか広さは 一気に旧社屋の3倍になった。

●1968年(昭和43年)

池袋に東京営業所を開設。北海道から一気に首都圏へ進出するという大冒険だったが北海道式のまめな営業スタイルがかえって都会では重宝がられて驚いた。

●1969年(昭和44年)

北海道科学機器協会(早坂勇造が初代理事長)と日本工業新聞社との共催で、かねてからの念願だった「第一回北海道科学機器展」を開催することができた。 資本金も1,100万円に増資となった。
(この年に昭和43年7月から占拠されていた東大安田講堂が、警視庁機動隊2日間の攻防で解除される。アポロ11号が月面着陸。日本のGNPが世界第2位になる。)

経営6カ年計画がスタート。当社の中堅企業へ成長しようという挑戦が始まった。
「最適な技術を売る」「考動(考えて動く)集団企業を目指す」など、この頃に 考えられた会社の理念や基本方針が今日まで我が社の経営理念として継承されて いくこととなった。

早坂恭二回想録「来し方50年」より